3章 師匠と幼馴染が出会った日

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 「か、海美さん……!」
 オレが目を覚ますと、目の前に海美さんの顔があった。オレは突然の光景に起きたばかりの脳が追いつかず、ただ呆然としてしまう。
 その海美さんが何をしているのかと思えば、オレの顔をペロペロと舌で舐めているではないか。少しづつ脳が目覚め、全身の感覚が蘇ってくると、その暖かくも くすぐったい感触が、如実に顔に伝わってくる。そしてそれと同時に、その海美さんの行動の意味不明さにようやく気がついた。
 オレは海美さんを押しのけようとするのだが、なんとなく、せっかく海美さんのかわいい顔がこんな近くにあるのを、そう簡単に押しのけてしまっては勿体ないような気がしてしまい、 そのくすぐったい感触すら嬉しくなってきてしまった。
 昨日海美さんの顔が近くにあったときはあんなにパニックになったのに、今は不思議と落ち着いていた。 なぜ海美さんがここにいて、なぜこんなことをしているのか、などはどうでもよくなった。
 海美さんも寝起きなのか、その瞳は昨日のようにクリっと丸くはなく、猫のように細い。チロチロと出す舌も、身長が低い海美さんに合わせてか、かなり小さいようだ。 そんなふうにまじまじと海美さんを見ていると、ますますかわいく思えてきてしまった。 そして、しばらくそんな行為が続くと、さすがのオレも、いろいろと我慢できなくなってきそうになる。
 そんなとき、海美さんの手がオレの顔に迫る。その肉球のようにプニプニした手で、オレに何をしてくれるのか。妙な期待をしてしまうオレもいるが、とにかくなされるがままにしようとする。
 そして、次の瞬間、
「痛っ?!」
 頬の辺りから、何か鋭い痛みを感じた。どうやら海美さんにひっかかれてしまったらしい。
「何するんですか海美さんっ!」
 オレはすぐに身を起こして、思わずそう叫んでしまった。しかし、
「あ、あれ……?」
 そこに海美さんはいなかった。いたのは、一匹の小さいシマウマだった。いや、よく見るとそれはシマシマ模様の猫のようだ。 オレはまだ寝ぼけていたらしく、そう見えてしまったらしい。
 声を荒げたおかげで、完全に目は覚めた。
 ここでようやく、自分の身の回りを確認する。オレはベッドの上に寝かされているようなのだが、ここがどこだか分からない。
「ん〜、拓斗くん起きたの? どうかしたぁ?」
 グルグルと辺りを見回していると、オレが寝ていたベッドの、オレの頭側の方にドアがあったらしく、軽い音を立てて開く。そこから、海美さんが入ってきたようで、 あくび交じりでオレに声をかけた。
 その声を聞くと、だんだんと昨日の記憶が蘇ってきた。そうだ、ここは海美さんと山綺さんのマンションだ。昨日は夕飯をご馳走になって、そのあと海美さんに 何かやられたところまでは覚えているが、あとは記憶がない。
 昨日のことを思い出したことがきっかけで、ゆっくりと思考が働き出すと、少し冷静に考えることができるようになった。
 さきほどのあれだが、いくら前触れもなく手を握ったり抱きついたりしてくる海美さんでも、さすがにオレの顔を舐めたりするだろうか。しかも、寝ている間に。 答えは簡単、ノーだ。今海美さんが外から来たのがその証拠だ。犯人は一人、いや、一匹しかいなかった。
「くそう、お前かシマウマネコ〜〜!」
 オレは、呑気に毛づくろいをしているシマシマ模様の猫を捕まえにかかる。しかし、猫というのはすばしっこいもので、目は覚めたとはいえ、まだ本調子でないオレに、 捕まえることはとうていできなかった。もっとも、本調子でも無理かもしれないが。
「わぁ拓斗くん! シマちゃんをイジメちゃだめぇ〜〜!」
 猫は、ひょいひょいと走り回り、最後にはこの部屋から出て行ってしまった。
 完全に舐められた。文字通り。オレは、猫なんかに負けてしまったことに多少なりとも悔しさを覚えつつ、そう言う海美さんに、
「だってその猫がオレのいい夢を……」
 台無しにされた、と言おうとしたが、やめた。というより、ことばが続かなかった。
 今オレは、初めて海美さんの方を向いた。さきほどまでは、シマシマ模様のネコに気を取られていて、そちらを向く余裕がなかったからだ。
「うぁあ、っとぉぉ?!」
 海美さんはそこに、大きめのTシャツ一枚を着ただけの状態で立っていた。いや、少し違う色の布がTシャツの下の部分から見え隠れしているところから、 下着は穿いているようだ。しかし、その姿、率直に言ってしまうと、かなりエロい。オレは見てはいけないと思いつつも、ついつい海美さんに釘付けになってしまう。
「あ、拓斗くんのえっちぃ」
 そんなオレを見透かしたように、笑いながらそう言う海美さん。しかし、隠す様子はない。
「うるさいぞ、朝っぱらから!」
 オレが騒いでしまったのが原因なのだろう、突然鋭い声が響き、寝癖が少しついた山綺さんが顔を出した。オレは、反射的に身構える。山綺さんは恐い。
「あ、おはよー、レイちゃん! ごめんね、夜遅かったのに起こしちゃったね。シマちゃんが拓斗くんが寝てるとこにちょっかいだしたらしくって。リンの部屋だし、 リンがいると思ったんだねー、きっと」
 さきほどは、シマシマ模様の猫をイジメるな、的な発言をした海美さんだったが、ちゃんと本質を分かっていたようだ。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。今海美さんは、この部屋を自分の部屋だと公言しなかっただろうか。ということは、勿論このベッドも海美さんのものということになる。改めて部屋を見渡してみれば、 ヌイグルミやキャラクターものの小物、女の子っぽい洋服などが所狭しと並んでいるではないか。なぜさきほど気づかなかったのだろう。やはりまだ、目が覚めていなかったのだろうか。
 海美さんのベッド。女の子のベッド。そこに寝ていたオレ。寝ていたのは倉地拓斗。オレは、顔がカーッと赤くなり、熱を帯びていることを感じた。 湯気がたっているかもしれない。
 しかし、そんなオレの気分を一瞬にして吹き飛ばすことが起こる。
「リン! こんな男の前でそんな格好をするな!」
「えー? だって楽なんでもん、このカッコ」
 山綺さんが海美さんを一喝するが、海美さんは聞く耳をもたない。山綺さんは山綺さんで、そんな海美さんの様子にあきらめているのか、その矛先は、オレに向けられた。 やはり、睨んでいる。恐い。恐いとしか表現のしようがない。
「え、あ……ふ、不可抗力ですよ! たまたま振り向いたらそこに……」
「見るだけで重罪、だ」
 とりあえず言い訳してみるものの、もはやオレの有罪は決定稿、情状酌量の余地すら山綺さんの中にはないらしい。
「断罪する」
 そして、一段と低い声がオレの耳に届いたかと思うと、それと同時に、山綺さんは人差し指をオレに向けた。
 すると、嫌な予感を感じる隙さえもなく、オレの額は、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。頭の中は、ゴインゴイン、と何度も反響している。そして、だんだんとその音は大きくなってきた。海美さんが 何か言っているような気がしたが、頭の中の音でかき消される。だんだんと視界も暗くなってきて、気づけばまた布団が目の前にあった。
 そしてオレは哀れにも、また気絶してしまった。



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