2章 彼女と食べ物と魔法の日

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 ここは、とあるマンションの一室。壁は白、家具類は趣味の良いアンティークなどが多いこの部屋は、全体的に落ち着いた雰囲気だ。
 部屋の奥、キッチンからは、美味しそうなにおいがたちこめ、それをかぐだけでよだれが止まらない。すでに並べられている一部の食器類、主にコップ類だが、 それらからもこの家の主のセンスの良さが見て取れる。恐らく高価なものなのだろうが、どこか素朴さも感じさせ、実に部屋の雰囲気に合っている。
 この部屋なら、なんてことない日常的な風景でも輝いて見えることだろう。
「……おかしい」
 ここは、とあるマンションの一室。海美さんと山綺さんにつれてこられた場所だ。どうやら二人は共同でこの部屋にすんでいるようだ。
 キッチンには海美さんがいて、一人でテキパキと料理をこなしている。山綺さんは、慣れた手つきで食器類をオレがついているテーブルに運んでいる。
 オレは、ただ一人ポツンとテーブルについて、ひとまず自分を落ち着かせようとしていた。
 ここは、なんてことない日常、など起こるはずがないと思っていた場所だ。そのはずだ。それなのにこれはどうだろうか、実に日常的で、現実的である。 オカルトもいざ知らず、石油王邸など微塵も感じさせない。本当にここでいいのだろうか。
「さてさてできましたー! リン特性ハンバーグぅ〜! 拓斗くん拓斗くん、見て見て〜」
 海美さんは、たった今盛り付けたばかりのハンバーグをオレの前まで持ってきて、コトンとテーブルに置く。満面の笑みだ。
 対してオレは、恐らくマヌケなほど驚いた顔をしていたに違いない。そのハンバーグのできの良さ、目を見張るものがある。まずは、ハンバーグの全てを決めるといっても過言ではない デミグラスソース。海美さんは市販の缶などは使用せず、自分で作ったらしいのだが、もうおいしそうとしか表現できない。そして本体も、絶妙な形で、今にも肉汁が あふれだしてきそうだ。さらに、横に添えてあるだけのはずの人参でさえも、本当に輝いて見えた。
 もはやこれを目の前にして、うだうだと考えるのはバカらしく思える。
「う、美味そう……」
 心からのことばだった。

 ちなみに、ここに至るまでの経緯はというと、あのあとオレを置いていってしまったことに気づいた海美さんが戻ってきて、歩いてこのマンションに来たのだ。 結局山綺さんとは何もなかったらしく、海美さんと山綺さんの様子はかわりなかった。
 そして、マンションに入るや否や、海美さんが夕飯を作り出すと言い、オレの返事を聞かぬまま作り出してしまった。
 オレは、一瞬家に連絡をしようと思ったのだが、朝家を出るとき、”いままでお世話になりました”と母親に言っておいたので、やめにした。それはもちろん、 海美さん達に、わけのわからない場所につれてこられて、妙なことをさせられると思っていたからだ。
 しかし、逆に無事ならなおのこと連絡するべきなのかもしれないが、うちの母親ならたぶん大丈夫だろう。そんな母親なのだ。

「いただきまーす」
 正直、今オレがこうしてハンバーグを食べていることに疑問を感じていないわけではない。だが、この魅力に太刀打ちはできなかった。
 いや、それだけではないのかもしれない。こうして実際に海美さんと山綺さんの中に溶け込んでみると、疑心暗鬼していた自分をまた滑稽に感じ、 なんというか、安心感のようなものを得ていた。そして、安心感は次第に大きくなり、相手への親しみ、興味へと成り代わる。こんな得体の知れない二人に、 そういう気分になってしまっていいものかと思うが、これは紛れもない、今のオレの感情だった。
「拓斗くん拓斗くん、おいしい? ねえ、おいしい?」
「まだ食べてないですよ」
 今思えば、海美さんとまともに会話したのはこれが初めてだったのだが、あまりそんな気はしなかった。”一緒にいて当たり前。”なぜだろう、そう感じている オレがいるような気さえした。
 さて、いよいよハンバーグを食すときだ。フォークの先に一口大刺し、口に運ぶ、つもりだったが、
「あの、海美さん、そんなに見られると気になって食べられないんですけど……」
 向かいに座っている海美さんが、不安そうな顔で見つめてきて、とてもそんな気にはなれなかった。
「だってだって、初めての人に食べてもらうのって不安なんだもん。おいしいって言ってもらえるか不安なんだもん」
 その気持ちはもっともだろう。料理を作る人にとって最重要事項だと思う。
 オレが高校の家庭科の課題で母親に料理を作ったとき、心配でそちらばかりを見ていたのを、海美さんを見ていて思い出した。そのとき母親も、 今のオレと同じ気持ちだったのかもしれない。
 なので、海美さんは未だこちらを見ているものの、フォークに刺しっぱなしになっているハンバーグを口に入れた。
 瞬時に口の中一杯に広がる味。もしこれが、料理系のアニメやマンガだったら、背景がバカみたいに光りだして、食べた本人は何か叫んでいることだろう。
「どう、どう? どうどうどう?」
 海美さんが身を乗り出す。
 くだらない御託など必要ない。
「おいしい……」
 ただ、それだけで十分だった。
「美味いよマジで! 海美さんすごいですね、こんなのレストランでも出せませんよ!」
「そ、そう……? ありがとう拓斗くん! お母さん直伝なんだよね、これ。レイちゃんはね、いつも黙々と食べるだけだから、そう言ってもらえるとほんっとに 嬉しい!」
 次の瞬間海美さんは、喜びのあまりかイスから降りて周りを飛び跳ね、オレのほうに近づいてきたかと思うと、
「拓斗くん大好き〜〜!」
 飛び跳ねた勢いでオレに飛びついてきた。
「……? わぁぁ!」
 一瞬何が起こったのかよく分からなかったが、どうやらオレは、海美さんもろともイスから転げおちてしまったようだ。 不幸中の幸い、頭を打つことはなかったが、いっそ頭を打って気絶しておきたかったと思わせる事態が目の前に広がる。
「あ、ゴメン。えへへ〜」
 ほんの数センチ前に、海美さんの顔があるではないか。オレは、ちょうど押し倒されたかたちになっていた。
 そう言って笑う海美さんがあまりにかわいくて、理性なんて一瞬で吹き飛んでしまいそうだったが、そこまでオレは獣ではなかった。それでも、目はあちらこちら泳いで パニックになっているのは間違いない。
 とにかくオレは、この状況を打開すべく、何か話題をふろうと思った。食べ物の恨みは恐ろしいというのは下校中に思い知ったが、やはり食べ物というのは そうとう印象に残るものらしく、話題はさきほどのハンバーグのことしか思いつかない。が、今はなんでもよかった。
「あ、あのあの、海美ひゃん! さっきのハンバーグ、母さん直伝だって言ってたけど、海美さんの母さんは今どうされてるんですか?」
 声が裏返っても気にしない。とにかく、自分を抑えつつ考えたことをすぐに口にした。
 効果は抜群だった。いや、効きすぎてしまっていた。途端、空気が変わったのだ。
 屈託のない笑顔を浮かべていた海美さんの顔が一気に曇り、海美さんは体を起こす。一瞬見えた山綺さんの表情も、より険しくなっている気がした。
「ああ、うん……えっと……」
「リン」
 困った表情で何か言おうとする海美さん。そこに、山綺さんがそれを遮るように、この部屋に来て初めて口を開いた。
「私は調べごとがあるから出てくる。帰りはいつになるかわからん。それと、その男に魔法を軽く見せてやれ。そいつ、まだ魔法というものを信じておらんようだ」
 そしてそのまま玄関へ向かっていった。
「……りょ、りょーかいであります! っていうか拓斗くん、信じてなかったの? 魔法」
 海美さんは、山綺さんが玄関から出るまでそちらを見て、ドアの閉まる音が聞こえると、少し間があった後、まだかげりがあるものの、また笑顔になってそう言った。
 オレは、聞いてはいけないことを聞いてしまったようだが、自分の中でもそのことについて掘り下げるのはやめにした。いやむしろ、拒んだ。今は、海美さんの 笑顔を保つことが先決だ。心からそう思った。
「いや〜、すいません。なんといっても魔法ですよ? そう簡単に信じられるもんじゃないですよ〜」
 オレは、無理にでも明るい口調で、笑顔を浮かべる。
 海美さんにもそれが伝わったらしく、同じように明るくしてくれる。
「まぁそうだよねー! よし、じゃあリン先生が魔法を見せて進ぜようっ! いっくよ〜〜!」
 次の瞬間、海美さんが手をパンと叩いたとかと思うと、急に体が熱くなってきた。
 周りを見ると、焚き火レベルだが、まだ倒れたままのオレのまわりは、火で囲われていた。
 リアルに伝わる火の熱さ、飛び散る火の粉の恐ろしさ。
「え……あは、は……」
 そして、暗転。
 オレの頭は、その意味の分からない光景と、不安を感じていたことの疲れからか、オーバーヒートしてしまったようだ。実際に熱いが。
 どうせ気絶するなら、もっと前にしたかった。



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