1章 初めて空を飛ばされた日
3
あのときあのまま帰らずに、秀也とつるんでいたらこんなことにはならなかったかもしれない。
少し前のことを思い出したオレは、かなりの後悔を覚えていた。後悔先に立たずとはよくいったもので、今となってはオレの力ではどうすることもできない。
なにせ今のオレは、空の上。空を飛ばされているのだ。二階建ての家の屋根が足元くらいにあるということは、実はそんなに高いわけではないのかもしれないが、
こんなありえない、初めての状況に陥り、ただただ縮こまって、成り行きに全てを委ねることしかできなかった。
「ねえレイちゃん、やっぱり下ろしてあげようよ、かわいそうだよ。普通の人がいきなりこんなことされてまともな思考ができるわけないし、
それにそれに、そもそもリンの”子”にするんだからぁ」
「では聞くが、まともな思考をさせたら、この男は私達におとなしくついてくるのか? もしそうならば、私はそうするが」
また雑音が聞こえてくる。二人の声の波長の違いすらよく分からなくなってきた。
今思えば、短い人生だった。あの問いかけに応じなければ、オレは地面に叩きつけられ、二度と光を見ることができなくなるだろう。応じれば、この場だけは
助かるかもしれないが、人間を空に浮かせてしまう人達だ、ついていったら何をされるか分からない。
気づけば、ありえない、ありえないと考えつつも、やはり体が覚えた恐怖感はぬぐいきれない。オレはこの状況を認めてしまっていた。キャッチセールスのほうが何千倍も
ましだったに違いない。
「秀也……」
そんなとき、どこかから声が漏れる。オレだった。なぜだか分からない。ただ、なぜかそう、呟いてしまっていた。掛け値なしに、秀也は唯一無二の親友だった。
こんなときに、女の子一人思い浮かばないのは自分としても少しどうかとは思うが、それだけ秀也の自分の中での存在は大きかった。
”親友だった。大きかった。”知らず知らず、オレは過去形を使っていた。自分としても意外で、恐くなってきた。
「レイ」
そんなとき、斜め下から、一段と低い、男のものであろう声が聞こえた。この声は雑音にはならなかった。
そして同時に、オレは妙な感覚に襲われていた。さきほどまでは恐怖から、指先一つ動かすことにも抵抗があったのに、今は、その声の主の方を向かなければならない気がしたのだ。
それは、一体なんなのか分からなかったが、気づけばオレは、もうその声の主の方を向いていた。
「……!? 秀也……!」
そこには、さきほどまで斜め下としか表現できなかったそこには、たしかに秀也がいた。
オレが見た人は二人。一人は女の人で、長髪が特徴的だ。恐らくオレをこんな状態にした張本人だろう。
そしてその少し後ろに、男が一人。そこにいたのが、紛れもなく秀也だったのだ。
「シュラか。どうした? 珍しいな、お前がこんなところにいるとは」
「”それ”が遠くから見えたからな」
女の人の言葉に、秀也がオレの方を目で示すつつそう言う。それ呼ばわりされたことに、少しムッとした。秀也のくせに。
「あれを下ろしてやれ。目立ちすぎる。騒ぎになったらどうするつもりだ」
「……分かった」
今度はあれ呼ばわりだ。秀也のやつ、いったいどうしたのか。何か様子がおかしい。だいたい、なんでその女の人と知り合いなんだ。
そう考えていると、急に、景色が上に流れ出した。さっきの秀也の言葉どおり、オレの体は下降しているようで、ちょうどエレベーターに乗って降りているような感覚がした。
オレは、いつのまにかひどく冷静になっていた。秀也が、親友が現れたせいなのだろうか。地面に足がついたときに、足に力を入れるのも忘れていなかった。
「ありがと秀也、助かったよ。でもなんでお前この女の人と知り合いなんだ?」
懐かしい地の感触をひとまずたしかめたオレは、秀也に歩み寄る。
「……? 知り合いだったのか、シュラ」
「いや、知らないが」
だが、その声を聞いたオレは、歩むことができなくなった。
「ん〜〜、さっすがシュラ様ぁ! リンが言ってもぜんぜんダメだったのに、レイちゃんに拓斗くんを下ろすようにいってくれて、ありがとうございますっ!」
そしてそんなオレの横を、するりと人影が通り抜ける。あのツインテールの女の子だった。
「……」
秀也は、軽くうなずいただけで、何も言わない。
「ん……? シュラ……?」
ここにきて、ようやくオレは気づいた。このオレの前にいる男の名は、どうやらシュラというらしい。たしかに顔は秀也のそれに近い、いや、全く本人のそれだと言ってもいい。
だが、雰囲気や話し方は、まるで違っている。少し信じられないが、秀也とは別人のようだ。そう考えなくては、合点がいかない。
「男、貴様は人違いをしているようだが、彼の名はシュラ。貴様の言う秀也などという者ではない」
やはりそうだった。念押しされるかのようなその女の人の言葉に、オレはいよいよ納得することができた。
しかし、そのことについては合点、納得したはいいが、まだ問題がいくつも残っている。
とりあえず一つあげるとすれば、この低い声女の人と男、ただ対峙しているだけなのに、
有無を言わさず、というかんじのオーラを放っている、ということだ。さきほどまでの空を飛ばされていた時とは、また違う恐怖を感じてしまっていた。
そして、忘れてはならない、最大の問題は、
「さて、もう十分すぎるほど時間はたった。いい加減に答えをだしてもらおうか?」
この、非日常への入り口だった。
オレの中に答えなどない。あるのは、再び生まれた恐怖と、少し前の日常だけだ。
「ねぇ、拓斗くん拓斗くん、キミはいい素材なんだよぉ。キミならきっとすごい魔法使いになれるんだよ? だから、ね?? おねがいだから、リンの”子”になって!」
そして浴びせられる、マンガかアニメの世界のようなことば。ありえない。
「ふ……さすがあの二人の一人娘……良い素材に目をつけたものだな……」
微かに、そんな低い男の声が聞こえた気がしたが、それを気にしていられるほど、オレに余裕はない。自分の中の常識、”日常”と、目の前の未知、”非日常”と戦っていた。
「拓斗く〜ん! ホントにおねがいします! もし子になってくれたら……そうだな、リンの初めてをあげちゃう!」
その瞬間、オレの中の戦いは終わった。
無邪気に笑う女の子。
「な……リン、何を言う……?!」
もう一人の女の人は、さきほどの迫力はどこへやら、目が点になって、少し頬が赤くなっている。恐らく、オレも同じような顔をしているのだろう。
「え、何々ぃ〜? リン、へんなこといった??」
幸か不幸か、女の子は”その”意味で言ったのではなかったようだ。その証拠に、驚いているオレ達の意味がわかっていないようだ。
ちゃんと話を聞くと、この子は単純に、”自分のまだ作ったことない初めて作る料理を食べさせてあげる”という感じの意味で言ったらしく、
それが分かるとオレは大きくため息をついた。
「……もういい、今日は帰るぞ」
それとほぼ同時に、女の人もため息交じりでそう漏らす。
一瞬聞き流しそうになったが、それは、闇を切り裂く一筋の光の如く、オレの心にしみこんだ。ひとまず助かったのだ。もっとも、明日になればきっと同じような状況が
待っているのだろうが、今は考えないことにする。
「えー、なんでぇ?」
女の子は不満たらたらのようだが、女の人の方はさきほどのことで完全に気を折られしまったようで、それを聞こうともしていない様子だ。
「男! 明日下校中のお前を迎えに行く。そのときまでに決めておけ」
だが次の瞬間、また迫力を取り戻した彼女は、オレに突き刺すようにそう言った。そして、踵を返し、すたすたと歩き出した。
「えへへ〜、じゃあね、拓斗くん。あ、そうそう、リンの名前は海美リン、さっきの胸がおっきくて恐いのは山綺レイちゃんだよ、よろしくね!」
対照的に、笑顔で手を振る海美さんと名乗った女の子。そう言うと、先をゆく山綺さんという女の人のところに駆けていった。
疲れた。精神的にも、体力的にも。
もう、何も考えない。それがいい。全ては明日だ。
頑張れ、明日のオレ。